私の好きな四十七士 三村次郎左衛門包常

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みむらじろうざえもん かねつね
生年・生国   寛文7年(1667年)・播磨国赤穂
家系      本姓・藤原氏(備中国の豪族三村氏の一族)
父       三村喜兵衛(常陸稲田藩士)
母       安積上閑(奥州の人松平右近の家臣)の娘
役職      酒奉行・台所役
禄高      7石2人扶持

三村次郎左衛門包常(以下次郎左衛門)は由緒ある家系の生まれである。しかし現在の禄高が低いため、身分低きものとして扱われていた。
主家大変に際し、身分の低い台所役人として会議の場に酒を運んでいくと秘密の話を聞かせまいとして話をやめられたり、書類を膝の下に隠したり、何かにつけ差別を味わされていた。
ついに腹に据えかねた次郎左衛門が「身分の上下で分け隔てするなら切腹して忠義の志を見せる。」と抗議し、退出しかけたところを大石内蔵助に取りなされて盟約に加わった。
しかし、盟約には加わったものの、元々微禄のところへ浪人したものだから生活に窮した。無収入の三村家を日ごろ親しくしている布袋屋勘十郎がシンパとなりささえていた。

そんな時、妻が妊娠した。次郎左衛門は生まれてくる子供の顔はみられないと、生まれてきたところで妻の細腕だけでどうやって育てていけるのか。妻もせっかく宿った子をむざむざ流すのは女の本能として辛くはあったが,「中条流(当時の堕胎法)しかありませぬな。」と覚悟を決めていた。しかし堕胎は失敗し母子ともにこの世を去っていった。元禄15年2月のことである。次郎左衛門は江戸への出立を前に施餓鬼供養をして、菩提を弔った。

次郎左衛門に残されたのは、赤穂に残した老いた母だけとなってしまった。自分が仇討を果たしたあと、母はどうするのか。仇討ち決行に迷いはないが、母のことだけは気にかかった。

布袋屋勘十郎に8月29日に下記送った手紙には「ただひとりの母、頼み奉り候、かえすがえすも頼み奉り候』と書かれている。

10月には大石達と江戸へ下向し日本橋石町三丁目の小山や屋弥兵衛方に大石らとともに同宿した。身分が低いこともあって基本的に同志たちの連絡役に使われていたようである。

変名は喜兵衛・嘉兵衛・次郎右衛門。

討ち入りの際は元々表門組に組み込まれていたが、毛利小平太が脱盟したために裏門組に組み換えとなる。討ち入りの際は杉野十平次と共に大槌で裏門を打ち破り突入を容易にした。更に。上野介の寝所まで踏み入っている。この時のことを母への手紙で、『私こと、今は十五日の明け方、上野介の裏門を一番に打ち破り、入ったところ上野介と一緒にいた者に出会ったのでこれを討ち果たし、無事に泉岳寺に引き上げたところ,特に内蔵助に呼ばれて、吉良邸における働きを褒められたと」書き送っている。

その後、三河国岡崎藩主・水野監物忠之の中屋敷に預けられ、元禄15年(1703)2月4日切腹(介錯 田口安右衛門).享年37歳。戒名は「刃珊瑚釼信士」

辞世「雪霜の 数にいりけり 君がため」

私がこの人物を好きなのは、小身で脱盟しても誰も責めない中にあって、生活に苦労しながら忠義の心を貫き等したからである。それだけでなく、亡くなった妻子や、年老いた母への深い愛情を感じ取れるからである。大石内蔵助もそんな次郎左衛門を愛したのだろう。時代は下って現代にあっても、力強さと優しさを兼ね備えたこのような人物になりたい。

 

 

 

 

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